2012年8月6日月曜日

「原発災害、司直の手に」という声がなぜ上がらない?

 東電が原発災害1年5ヶ月後に、ようやくしぶしぶ事故直後のテレビ会議の映像を公開したという。
公開されたものは、報道関係の人間が東電の端末で見られるものは150時間分のみに限られ、公開されたものはそのうちのたった90分、音声の入ったものは22分間で、映像には編集、加工された箇所が1700もあるという。

 東電に公的支援をした国民の当然の知る権利として、公共放送の場での無修正の録画全面公開を強く要求したい。メディアは東電の隠蔽体質を批判するが、こんなにも重要な人災に司直の手が一向に下らず、こんなにも重要な証拠書類の管理を1年5ヶ月後もの間、黙って災害の当事者である東電に任せ続け、今に至っていることに一番根本的な問題があるのではないか。

にもかかわらず、そのことについて、メディアは押し黙ったままで、もっぱら東電の隠蔽体質を批判するのみに止まっている。

 たとえばフクイチの原発災害に関して国会の事故調の報告書は出されたが、その提言を受けてさらに踏み込んだ調査、追求が行われるどころか、黒川委員長の国会招致すら拒否されるという事態が生じている。利益相反のある自民、公明、民主党の電力族が、黒川氏の国会招致に反対することは、始めから目に見えている。国会がまともに、民主的に機能していれば、日本の政治は今ほどひどい状況にはなっていないはずである。

 言葉を変えれば、機能不全な国会などでいくら調査委員会など作って問題の深層を追求したところで、それは「国会は何もしていないわけではありませんよ」と国民への弁解をするための既成事実を作るだけに終わるのである。フクイチの原発問題や原子力ムラの犯した大罪については、司法の手で責任追求を徹底的に行わない限り、靴を隔てて痒きをかくようなものである。

原子力ムラに対して司直の手が一向に伸びないことの問題性に対して、日本のメディア各社は凍りついたように押し黙ったままである。わずかな人間が被害を被った事件にも目を光らせ大仰に騒ぎ立てるメディアが、腫れ物にでも触るかのように、こと原発問題についてはおもしろいほどに、触れようとはしないのである。福島では60人もの人たちが、フクイチの原発災害のせいで、現地に取り残され餓死状態で発見されたと言われているのにーー。

一体この国の正義はどこにいってしまったのか。これでは国税をいくら景気よくあちこちにばらまいても効果なく、「民度の低い、まともに相手ができないわけのわからない国」と世界の先進諸国から蔑まれ、小馬鹿にされ、スルーされても致し方ない。

この国の司法は一体誰のためにあるのだろうか。大企業か、中央官僚や電力族か、はたまた既得権益を死守する司法関係者のため?

以下河野太郎のブログを転載する

国会のガバナンス

2012年07月31日 22:41|核燃料サイクル自民党改革電力自由化

原発ゼロの会主催の国会エネ調で、黒川国会事故調査委員会委員長をお招きした。

国会の下につくった国会事故調だが、報告書を提出する際にも、委員会には記者会見をやらせないという動きがあったり(塩崎代議士などの奔走で、最終的には記者会見もやり、議員向けの説明会も開かれたが)、黒川委員長を国会にお招きしようとしたら与野党の一部に反対があり、実現しなかったりとおかしなことが続いた。

これはやっぱり与野党のなかに、いまだに電力業界に媚びを売ったり、原発を推進しようとしたりする議員がいるからだ。

国会事故調は、報告書以下でも以上でもない、委員長だけが勝手に国会で発言することはおかしいなど、屁理屈を並べて、黒川委員長の参考人招致が実現しなかったのは、まさに原子力ムラよもう一度と思っている議員がいるからだ。

さらに大きな問題として、新しい規制委員会の国会人事について、国会同意人事そのもののガバナンスがきちんとしていないことが問題になっている。

自民党の場合、国会同意人事は、一部の限られた議員が政府からの提案についての審査をして賛否を決めているという現実があり、規制組織の議論をずっとやってきたプロジェクトチームのメンバーの意見すらきちんと反映されない。

政務調査会の一部の議員にとっては、極めて好都合なしくみだ。


昨今の世の中の閉塞感や政治不信の裏側には、このように国会が民主的に機能していないということがある。

議院内閣制の特徴である政府の連帯責任が、与党全員に党議拘束が掛かるように広げられ、同様に、野党も執行部の連帯責任であるべきところ、野党議員全員に党議拘束が掛かるという、極めて非民主的な運営になっている。

さらに、本来ならば衆議院議員二十人の賛同を得て提案できるはずの議員提案も、衆議院事務局が所属政党の了解がないと受け付けないという超法規的対応をしているために、政党の執行部による締めつけや一部の族議員の反対で現状維持になってしまうという悪習から抜け出せない。

こうした結果、臓器移植法同様に一部の関係者にとっては重要な問題であるはずのサマータイムや代理出産、動物愛護等、社会的に影響の大きい問題についての議論が、ごく一部の反対で封殺される。

再稼働に関する議員立法も、こうした縛りがなければ立法が可能になるのではないだろうか。

まともに国会が機能すれば、今回政府が提示した新しい規制組織の同意人事など、まちがいなく否決されるのではないか。

「決められない政治」というのは、政府だけの問題ではない。国権の最高機関である国会の自己統治機能が問われている。



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