2012年7月16日月曜日

いじめ報道にすり変わった、原発報道


 明けてもくれても、大津のいじめ事件の報道。メディアは教師や学校、教育委員会叩きに忙しい。
問題の中学校は早速警察が入り、捜査対象となった。誤解のないように言うが、いじめで小さい子どもの命が絶たれてしまったことは誠に痛ましい。しかし、同じようなことは今までも、あるいは水面下でも、大人の世界でも、いくらでもあることではないのか。

責任回避だの、自己保身だの、見て見ぬふりをしてけしからんだの、それはそのとおりである。

 しかし、国民の生存権を脅かすような深刻な事態が引き起こしながら、誰一人として責任をとろうとはせず、組織ぐるみでかばい合いをしたり、自分たちの都合のわるい情報は何もかも隠蔽し、自己保身に忙しいのは、日本の電力会社や、霞が関官僚、民主党政権の閣僚や電力族の体質そのものではないのか。

また、自分たちにとって脅威になるや利得をもたらす権力集団にとって都合の悪いことであれば、それが国民全体の生活に長年にわたって悪影響を及ぼすような、どんなに捨ておけないようなことであっても、「それは間違っている」と声を発することすらせず、弱小な組織や個人に対しては、異常といえるまでに執拗に攻撃を加えるのは、多くの国民が日照りの中、雨の中、毎週集会を開き、再稼働反対の声を上げているのに、見て見ぬふりをして、まともに取り上げないのは、日本の大型メディアの体質そのものではないのか。

国会事故調の報告書を受けて、国会では早急に報告書に示された課題に向けて、さらなる議論と、適切な対応をしていかなければならないはずであるし、それは今後のエネルギー政策をどうすべきかという問題とも決して無関係ではない。原発問題の責任の所在を明らかにし、今の無責任体制の中で原発を稼働することの危険性を十分に踏まえた上で、国民的議論を尽くさなければならない時期であるにもかかわらず、メディアは明けてもくれてもいじめ問題に終始している。

教師叩きや学校叩きは、これまでもメディアが事あるごとに、火がついたように行ってきたことであるし、たしかに教師や学校など、いくら叩いても電力会社や大企業とは違って、メディアの腹が痛むことはなにもない。権力には迎合し、弱い者の声は無視するようなジャーナリストに正義を振りかざして、教師叩き、学校叩きをする権利がどこにあるのか。

国民の政府や官僚や電力会社に対する怒りやストレスのはけ口を、いじめ問題に向けさせ、原発問題を見えにくくするよう、操作、誘導するようなメディア戦略は、あまりに姑息といわなければならない。