2012年3月16日金曜日

「格納容器は紙ふうせん」だそうですが、それが何か?: 原発エンジニア菊池洋一氏

一昨日、大きな地震が再び東日本を襲った。原電の東海原発が停止していて本当によかったと棟をなでおろした人も多いのではないだろうか。むろん、停止しているからといって、決して安全というわけではないのだけれどもーー。

東京工大、東大、京大の錚々たるお偉い先生方は、1年前フクイチで水素爆発が起きた後でさえ、まだ、涼しい顔でテレビに登場し、素人相手に専門用語を振りかざし、とくとくと理科の授業をしながら、格納容器は頑丈で決して壊れない、圧力容器が壊れるなんてことは決してあり得ないと繰り返し断言した。

だが、今年3月10日の東京新聞WEB版によれば、元GE関連会社のエンジニアで、マーク2の建設工程管理者を務めていた菊池洋一氏は、原発建設当時ですら、現場では「格納容器は紙ふうせん」と呼ばれ、「爆発すれば持つわけないよな」などと言われていたと漏らす。

それどころか、「設計がいい加減で、宙吊りになった配管は、大地震の揺れで折れて再循環できなくなる危険性がある」と言い切っている。そんな原発を40年で廃炉にするどころか、運転期間の10年延長、否20年延長まで認めようというのである。

菊池氏は、「アメリカでは、地震のあるところに、活断層に原発を置くなどということは絶対しない」と語っている。

つまり原発は経年劣化どころか、その建設段階から、地震大国特有の自然条件に十分叶うような安全設計がなされていなかったのである。

日本列島をめぐる激しい地殻活動は1年たっても収束を見せない、そのような厳しい現実に直面しながら、未だに原発の再稼働を認めようとは、全くもって正気の沙汰とは思えないし、国民の健康や安全を、日本の政治家や原発推進を図る官僚、大企業、御用学者が、いかに軽視しているかを如実に物語っている。


http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20120310/CK2012031002000061.html?ref=rank

東京新聞Web版
茨城

岐路に立つ原子力<1>「格納容器は紙風船」

                                                                            2012年3月10日

東京電力福島第一原発事故後、原発の在り方が大きく問われ、本県では東海村の東海第二原発の「廃炉」「再稼働」をめぐり、大きく揺れている。東日本大震災から十一日で一年となるのを機に、関係者や識者らに東海第二について語ってもらった。
-東海第二原発との関わりは。
米ゼネラル・エレクトリック社(GE)関連会社のGEテクニカルサービスカンパニー(当時名)社員として、建設の工程管理者として働いた。大学で建築を学び、卒業後は建設コンサルタントをしていたが、知人から「平和利用に協力を」と言われて同社に入った。福島第一原発の6号機も携わったが、東海第二原発は(建設前の作業として)穴を掘った直後から試運転直前まで見た。
原子炉の設計はアメリカのGE社がやり、耐震性などを踏まえた実施設計は日本のメーカーがやった。日本語を話せないアメリカ人の統括マネジャーの下、私は契約相手の日本原子力発電(原電)に毎日、工事の進捗(しんちょく)状況を説明した。配管や溶接がどこまで終わったか、今日はどこが立ち入り禁止とか、ほぼ全ての現場に顔を出した。
-感じたことは。
当時は猛勉強して無我夢中で建設に当たったが、それでも振り返れば、いいかげんなものを造ったなという気持ちはある。三十年以上前でも基本的な部分は頭に焼き付いている。
とにかく当時は試行錯誤。アメリカでやるコンピューター上の設計では配管は邪魔し合わないのに、実際の現場ではぶつかる。でも当時は急いでいるから突き進んだ。その場で設計を十数回書き直すのは珍しくなかった
私が最も深く携わったのは放射性物質を閉じ込める格納容器。クレーンでつり上げた(金属の)型を積み重ねる作業だが、かみ合わない部分もあった。日当たりのいい部分は少し伸びたりするから日陰の場所と合わなくなる。時間をおけば元に戻るんだけど、とにかく急いでいた。
 合わない部分をワイヤで引っ張り、溶接で肉盛りして合わせる。だから、つなぎ目に段もできた。溶接後にワイヤを抜けば、いずれずれる。開発直後の試験で合格しても十年後、二十年後にひびが入る可能性はあると思った。原発の現場なんてその程度だった。
-最も問題と思った点は。
 根本的に当時から格納容器を見ていて「これは事故があったら耐えられないんじゃないか」と思っていた。当時の最新型、出力百十万キロワットにもなれば格納容器も巨大で全体で高さ五十メートルぐらいになる。
 比べて格納容器の鉄板はすごく薄い。図面では厚くなっているのに実際は一番分厚い下の部分でも三十八ミリほど。上へ行くにつれて少しずつ薄くなっていく。現場ではあまりの薄さに「紙風船」と呼んでいた。事故があって爆発したら持つわけないよなって。
 設計そのものがいいかげんだったんだ。配管は空中につってあり、地震のたびにブラブラ揺れる。原子炉は熱膨張で伸びるから配管が引っ張り上げられるのを防ぐために床に固定できない。宙づりの配管が大きな地震で折れて再循環できなくなる可能性はある。
-原発の危険を訴えることにした契機は。
一九八九年の福島第二原発3号機の再循環ポンプ事故の後、東電に改善を訴えたが聞き入れられなかった。反原発を訴えざるを得なくなった。
-さまざまな経験も踏まえて、あらためて東海第二の安全性は。
 東海第二も浜岡も、壊れた福島も同じだ。(巨大地震に)耐えられる設計になっていない。アメリカでは地震がある所、まして活断層の近くに置くなんて絶対にしない。
(井上靖史)

◆東海第二原発建設に従事・元技師 菊地洋一さん(70)

きくち・よういち 岩手県釜石市出身。高度経済成長期の1970年代、東海村で原電東海第二原発の「マークII」と呼ばれる沸騰水型軽水炉建設に4年間、携わった。元技術者や大学教授らでつくる民間の原発事故調査委員会のサポートメンバーも務めている。原発の危険性を訴えるため全国行脚しており、現在は宮崎県串間市在住。九州電力にも原発反対を訴えている。