2011年4月10日日曜日

大災害:止足の戒め

「知足不辱、知止不殆」(老子)
 足るを知れば辱(はずかし)められず、止(とど)まるを知ればあやうからず
今の日本のかじ取りをする人々にもっとも必要な言葉ではないかと思う。


泥縄であたふたと弥縫策を講じてお茶を濁し、責任所在のあいまいな答弁で自ら不安を煽るような風評を流しながら、周りから綻びや矛盾を突く意見が出てくると風評はいけない、チェーンメールは無視すべきと言論統制をやる。これが民主主義を標榜する国なのだろうか。政府批判がいけないというのであれば、過去の事は問わないから、今すぐにでも進むべき道を改めてもらいたいと切に願う。


風評の流れる余地がないようスピーディの情報など、正確な情報を詳細に提供し(情報の選択は国民に任せばよい、日本ほど識字率・中等教育への就学率の高い国も少ないのだから)、最悪の事態に備えた危機管理対策を迅速に実行してもらいたい。活断層の上に立っているような、あるいは津波がきたら発電機が止まってお手上げになるような原発は今すぐにでも廃止してもらいたい。


これまで原発が日本にとってこれほど危険なものであることを認識したことがなかったため、愚かにも原発問題に関心を抱いたことすらなかったが、現に大きな地震活動が一向収束せず、これがいつ収束するか誰一人としてまともな予測が立てられない状況であることがはっきり露呈してしまったのだから、いまさらアメリカやフランスと原発の数を競うのは愚かしい。


今こそ止まるべきであると思う。ドイツのような地震とは縁遠い国でさえ、このたびの日本の原発事故が大きな教訓となり、原発反対の政党が圧勝したではないか。


止まるを知ればあやうからず。


ちなみにドイツでは土日は閉店法で大方の店は閉まっているし、首都の夜は不夜城さながらの明るさで、一晩中ネオンがぎらぎらしているといった状況からは程遠い。日本も節電を行い、地熱発電、風力発電、太陽光発電などにエネルギーを求めていけば、そして首都機能の一部を、西日本の比較的岩盤のしっかりしたどこかに移転すれば、そこに新しい雇用も生まれるであろうし、東京近辺のエネルギー問題も解消される。


足るを知れば辱(はずかし)められず。


今は自粛が国の経済を停滞させるということがしきりに強調されているが、果たして多くの国民はただ単に自粛しているだけなのだろうか。テレビで無責任なことを放言していれば、多額のギャラが懐に入ってくるような人たちは、周りから不謹慎だと思われることを恐れて自粛を続けているのかもしれない。


しかし、一般市民の消費行動が鈍っているのは、これから食料の値段や燃費が跳ね上がり、増税が課せられ、社会保障や福祉がどんどん切られるかもしれないし、今度自分たちの住んでいる場所で同様の大型の災害が発生したときに、貯えがなければ手も足もでないといったことを考えた上でのごく自然な自衛行動だと思う。


事態が沈静化するまで決して増税はしないから、安心して被災地のために消費をしてもらいたいというような方針が出されれば、状況は変わるはずだ。


もうひとつは東北地方の復興について、もちろん地元に強い愛着を持つ人たちは1日も早く元のような生活に戻りたいと思っておられるだろう。原発問題と今現在続いているような地殻活動の活発な状況さえなければ、ライフラインの復旧とがれきの撤去、湾岸工事に並行して、高台を造成して仮設住宅を建て、さら地には役所や病院、工場、学校、市場などを元通りに建設すればそれですむかもしれない。しかしそれにしても、30数メートルの津波に持ちこたえられるような防波堤を三陸海岸500キロ以上にわたって建設するなど不可能に近いし、津波で被害を受けた農地の塩害の問題もある。


しかしそれ以上に今は原発の問題がある。


多くの人たちを動員して湾岸工事を行い、港を作り、工場を建てたところで建設業界は潤うかもしれないが、食物連鎖で魚が汚染され、水産業が立ち行かない状況になれば、そこにつぎ込んだ莫大な税金や危険を賭して現場で汗水流した人々の努力は水泡と化す。


小利を見れば、すなわち大事ならず。


被災地の人々そして日本国民の安全と人間らしい生活を守るためには、大きな英断が必要なこともある。避難区域の定め方も高濃度の放射能が流れたから避難させるというようなやり方はありうべき危機管理の在り方ではない。そんなに「安全」なのであれば、安全だと国民の前で豪語する人たちが皆自主的にその地に転居して、長期間にわたってふつうにそこの空気を吸い、水を飲み、現地の食材だけを食して生活してもらいたいものである。