2012年2月1日水曜日

国家危機管理の観点からみた原発の是非は?:西尾幹二氏の論稿

 「即、脱原発」と唱えれば、左派だとか、ひきこもりの適応障害だとか、ヒステリーだとか、60年代の平和主義者、売国奴だとか、発言力のある専門家を巻き込んでしきりにレッテル貼りをしたり、「ネットなんかで、いくらほざいてみても、所詮ごまめの歯軋り、負け犬の遠吠えだろ」と言わんばかりに斬り捨てられたりーーー。メディアを通して、小さな声を発しようとするものに対して、何とか口封じしようという無言の圧力が、3.11以来、社会全体にかけられている。

薔薇っ子は残念ながら、上のカテゴリーのどれにも属さない。
それに、自分のブログひとつで世の中が変わるなんて、甘い幻想を抱いてブログを書いているわけではない。

では、「なんでお前はブログを書き続けているのか?」といえば、

前にも書いたと思うが、日本人として、この時代を生きたものの一人として、「大型メディアを始めとしてこの国にはただお上の言うことに盲従するばかりで、自分の力では何も考えられず、何も言えず、少数の権力者集団の私利私欲のために踊らされ、ただ黙って破滅に向かって突き進むお馬鹿で情けない人間しかいない・いなかったのか」、そして「日本はそんな小さな声を発する行為さえ許容しないような厳しい言論統制下にある、恐ろしい強権国家なのか」とだけは言われたくないのである。

そして、もうひとつの大きな理由としては、この時代の日本に一体何が起こり、それを自分はどう見て、どう考えたかという記録を残すために、ブログを綴っているだけのことである。

いつ何が起こったのかということだが、大型メディアは、都合の悪いニュースをさっさと削除してしまう。だから、必要な箇所を貼りつけて記録に残しておかないと、過去にさかのぼって少し前までは見られたニュースが必ず閲覧できるという保証はない。

さて、随分前置きが長くなってしまったが、「原発の再稼働など、もってのほか」といえば、「原発は軍事戦略的に不可欠であり、お前は国の安全ということを視野に入れることもできないような馬鹿な平和主義者なのか」と一刀両断する向きもある。

しかし、決して国家の安全について考えないわけではない。むしろそれを考えればこそ、今の日本の技術力や、管理システム下では、残念ながら、原発を持つことは、国の危機管理上危険極まりないし、無謀でしかないと結論せざるをえないと思うのである、それを証明するような、ずさんで唖然とするような事実が、3.11以降一気に露呈しているから、決算期で繁忙中にもかかわらず、今日もこんなブログを書き綴っているのである。

以下右派の西尾幹二氏のSAPIO掲載記事を転載する。

彼の考えすべてに同調するつもりはない。ただし、国家の危機管理という観点から見たときに、日本は原発を持つ資格がない国であるという主張と、その論拠については、全くそのとおりであると思う。

「常に最悪の事態に備えるという発想が軍備には必要不可欠である」が、日本のリーダーたちには全くその発想がない。「最悪に備える軍事的知能が、戦後の日本にない」と西尾氏は言う。

しかしそもそも戦前、戦中の日本には最悪の事態に備えるという発想があったのだろうか。太平洋戦争も、また、最悪の事態をシミュレーションする能力の極めて乏しい、過激な権力者集団の読みの甘さ、隠蔽体質、大型メディアの追従による大衆操作によって終始した悲劇ではないのか。

つい先日、4年以内に首都直下型の大地震が70%の確率で発生するという東大の地震研究所の発表があった。薔薇っ子はこのブログを始めたときから、危機管理の観点から、首都機能移転の必要性について議論してきたが、日本政府には全く何の動きすら見られない。

首都機能移転には膨大な費用がかかるということが主たる理由の一つなのだろうが、政府の無駄遣いはこの期に及んでもまだ、半端なものではない。昨年末、国会で、原発銀座まで新幹線を伸ばす馬鹿げた工事に総計3兆円もの税金を注ぎ込むことを、たった20分で決議してしまったそうである。優先順位が違うのではと言いたい。

原発銀座は過疎地だからこそ、設置されたのである。そんな過疎地を新幹線の発着駅にしたところで、JRはどれだけの収益を見込めるというのか。

ゼネコンや鉄道関連産業からの政治献金と地元の得票数を獲得するための政党のエゴと利権に群がる官僚の赤字覚悟の公共工事などに、未だ無駄な税金を湯水のように注ぎ込める余裕があるならば、増税など即刻、辞めて頂きたいものである。

http://www.news-postseven.com/archives/20120126_82064.html

テロに無力の日本はそもそも原発扱う資格ない国と西尾幹二氏

2012.01.26 16:01

福島第一原発の事故直後から、保守の立場にあって強く脱原発を主張してきたのが評論家の西尾幹二氏である。左派の主張にはない国防の観点から脱原発の必要性を論じる。
* * *
原発の存在自体が日本の国防を脅かす最大の要因になっている。
日本の原発は大量の冷却水を確保する必要から全て海に面しているが、海上から高速船で近づくテロ攻撃に対して全く無力である。韓国の原発は海に向けて機関銃座を据えつけているが、日本ではなんと法律上自衛隊による警備すら認められておらず、普段は民間警備会社に任されている。
しかも、今回の原発事故でテロリストに決定的な弱点を晒してしまった。原子炉そのものを直接破壊しなくても、電源設備を稼働不能に陥らせればよいのである。
日本の原発は空からの攻撃に対しても無防備である。外国から見れば、日本全土に核地雷が埋められているようなものだ。1998年8月31日、北朝鮮は弾道ミサイル・テポドン1号を発射し、青森県上空を通過させて太平洋に落下させたが、これは六ヶ所村にミサイルを落とせることを示威したものと解釈できる。
こうしたテロ攻撃、軍事攻撃を受けずとも、今回のような大事故が起これば、核攻撃を受けたに等しい、あるいはそれに準じた被害が発生するまさに今回の福島第一原発の事故現場は核戦争の最前線に近かったのである。
関係者にその自覚すらなかったことが最大の問題である。その証拠に、例えば、日本の技術は軍事用に作られていない。日本は世界に冠たるロボット先進国であるはずだが、事故現場で役立ったのはアメリカの軍事用歩行ロボットであり、無人偵察機であり、フランスとアメリカのセシウム除去装置だった。
常に最悪の事態を想定し、準備を整えておくのが軍事的知能というものである。戦後の日本にはこれがない。だから、非常事態に国の中枢が機能しなかった。日本はそもそも原発を扱う資格を欠いた国だったのかもしれない。
私は原発事故以来、こうした問題を何度もメディアで取り上げ、昨年末には『平和主義ではない「脱原発」 現代リスク文明論』(文藝春秋刊)にまとめ、とりわけ保守論壇に対して原発の是非を強く問い掛けてきた。だが、問題のポイントを誤解せずに正面から受け止めて答える声はほとんど皆無である。
「平和利用」という美名に飾られた日本の原発は戦後の「一国平和主義」の象徴であり、その矛盾が最悪の形で露呈したのが今回の事故である。もはやアメリカの「核の傘」は幻想にすぎないことは明らかであり、今後アメリカの軍事予算の削減とともにアメリカの核による抑止力は弱まっていく。
ならば日本は独自に核を持つ必要があるが、45トンものプルトニウム、つまり5000発もの原爆は必要ない。(※注:日本のプルトニウム保有量は60トンを超えないよう歯止めを掛けられているのだが、抽出されたプルトニウムは増え続け、溜まりに溜まって現在45トンを超えている。プルトニウムが8キログラムあれば長崎型原爆が1個作れるので、5000発以上の原爆の材料を保有していることになる)
ほんの数十の核ミサイルとそれを搭載する原子力潜水艦があれば、核武装した膨張国家・中国に対する抑止力になる。そして、その抑止力を持つ自由を獲得するためには脱原発が必要なのである。
※SAPIO2012年2月1・8日号