2011年5月24日火曜日

原発事故は単なる失敗?:事故調査委員長の人選

 復興構造会議の委員長に財務省との繋がりが大きい五百旗頭氏を選び、第1回の会議から早々予算、増税の話題が提示されたのと同様に、事故調査委員長の人選も、恐らく政府にとって都合のよい人材をトップに据えるに違いないことは容易に推察されることであったが、委員長は失敗学でおなじみの畑村氏になったという。

原子力工学の専門家で、原子力村の汚染を受けていない志の高い研究者が我が国にもいるにもかかわらず、あえて畑違いの機械工学の専門家を原発の事故調査委員長に据えたのだろうか。

心臓手術の事故調査をするのに、皮膚科の医師を委員長に据えるようなものである。

あえて失敗学の専門家を委員長に据えるということから見えてくるのは、政府側が福島原発の事象を、単なるひとつの不幸な事故、人であれば誰でもがおかすであろう過ちや失敗としての側面からとらえるという枠組みを委員会の中に作ることで、この事象の大きな組織犯罪としての側面を覆い隠してしまいたいと考えているのではないかということである。

ちなみに私は、福島第一での事象は、事故ではないと思う。

事故とは「予期せずに人や物などに損傷や損害を及ぼす出来事のことであり」、福島原発の事象ということも、決して予期できないものではなかったからである。

(原発では、過去に何度も深刻なトラブルが起きていたにもかかわらず、それに対する抜本的な対策が何も講じられず、改善策が講じられなければ、さらなるトラブルが生じる可能性があること、耐久年数が来ればその危険性が刻一刻と高まることは、馬鹿でない限り十分に認識していたはずであること、大型地震や津波が来たら持ちこたえられないことも、全電源喪失から回復できなければ炉心溶融は免れないことも、どんな状況で電源が喪失するかも、中学か高校レベルの理科を学んだことがある人間であれば、わからなかったというはずはないからである)。

もし都心の東電本店の真横に原発が設置されていて、そこでこの事件が起きたのであれば、まだ「電力会社は原発を安全だと信じ込んでいた。誰しも危険であることに目を向けたくないから、彼らも危険であることに目を向けようとしなかっただけである」と言えるかもしれない。

しかし、そうではない。明らかに危険なものであるという認識があったからこそ、東京都の中には建設せず、あえて人里はなれた場所に設置し、安全であると言って地域住民を洗脳し続けたのだからーー。

せめて地域住民を対象にこういう緊急事態が起きたときに、彼らが避難時に何をすべきかという安全講習ぐらいは定期的に行い、簡単なマニュアルぐらいは当然配布しておくべきであった。

ところが、それさえもなされていなかったのだから全くひどいものである。私が一番呆れ返ったのは、10キロ圏内から避難民が屋外避難をしている状況が、テレビ画面に写し出されたときに(今にして思えば、あの地域一帯に高濃度の放射能物質が飛散していたわけであるが)、住民の中で、マスク、手袋、帽子(フード)の少なくともこの3点セットで最低限身を守っている人がほとんど誰もいなかった点である(風邪でマスクをしている高齢者の姿や、寒い時期であったせいか帽子をかぶっている人はちらほら見られたけれども、赤ちゃんや子供は外出用に厚着をさせているだけで、ほとんど何も防御が施されていなかった)。

福島の事件は決して「失敗」などという次元で片付けられるような事象ではない。

事故後の対応に関しても、周知のとおり、政府、官邸、東電はいずれも責任の所在を明らかにせず、都合の悪いデータの隠蔽を繰り返し、人々の健康や暮らし、財産や生産活動に甚大な損害や損傷を与えるような事象を引き起こしているにもかかわらず、未だ消費者や周辺住民に当然提供すべき正しい情報開示を意図的に行っていないのであるから、これは、むしろ検察庁が早急かつ集中的に捜査を行う必要がある案件ではないのだろうかとさえ、思えるのである。

もう一点、畑村氏が調査委員長に委嘱された理由は、以下の氏への「原発事故考」というMSN・産経ニュースに記載されているインタビューの内容を見れば明らかであろう。畑村氏は、「悪いのは東電ではなく日本企業文化である」とし、「人類は原発を知り尽くしていない。だからこれからも事故は起きるだろうが、事故を克服して原発を使っていくべきだ」との考えからも明らかなように、未曾有な原発事故を引き起こしまだ収束のめどさえつかない技術力でありながら、「他の代替エネルギーとともにこれからも原発を推進していく」などと世界に言い放って、憚らない政府や東電にとっては、誠に都合のよい人物なのである。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110421/dst11042103130002-n1.htm

もちろん他の電力会社をはじめ、日本企業が、今回の原発災害を他山の石としなければならないことは言うまでもない。しかし、今回のこの事件は、単なる日本企業文化論で片づけられるような事象だろうか。

原発災害は、氏がこれまで手がけてきたような回転ドアの事故や交通事故とはその規模も、災害が世代を超えて人や環境に及ぼす期間も全く次元が異なる。原発による今回のような未曾有な大災害は、失敗を繰り返して推進すればいいものではなく、二度と引き起こされてはならないのである。

この原発災害から我々が学ぶことがあるとすれば、日本のような地震や津波の被害を受けやすい、国土の狭い国が、国土が広いアメリカや岩盤のしっかりしたフランス並に原発を持つということが、どれほどリスキーで馬鹿げているか、そして貪欲なごく一握りの人間の利権を守るために、どれだけ多くの人間が今も、そしてこれから何十年にもわたって大きな不安にさらされ、かつ多大なつけを支払わされ、被害や迷惑を被らなければならないかということである。

せめて調査委員には国民の目から見て、この人物ならば政府にも、役所にも、電力・電力関連会社にもなびかず、原子力工学・法律・放射線安全学などの専門性を持ち、公正な目で事故原因や経過を吟味・検証できると思えるような信頼できる専門家を多数委嘱しない限り、事故調査委員会は、名ばかりのものとなることは自明であろう。















【話の肖像画】

原発事故考(下)失敗学会理事長・畑村洋太郎

2011.4.21 03:11
 ■企業文化が生んだ組織災害
 --想定外を失敗学の視点から捉えるとどうなりますか
 畑村 (繰り返すけど)起こると困ることは考えようとしない。(考えないから)それが想定外になる。
 --そうすると、災害対策における重要なことは
 畑村 (1)自分の目で見る(2)自分で考える(3)自分で決める(4)自分で行動する。この4つが重要で、第三者が決めたことに従って失敗すると、「自分は悪くない」と言い訳をする。
 --それを東日本大震災の大津波のケースに当てはめると
 畑村 三陸海岸では小学校で津波に対する教育や訓練を日ごろから実施していた。しかし、あらかじめ町や村が決めた避難所に逃げたのに津波にのみ込まれてしまった惨事がある一方で、決められた避難所よりもっと高い場所に逃げないと危険だと自分たちで早く判断して逃げて助かった小学校もあった。
 --自分たちで判断するか、判断しないかが明暗を分けたわけですね
 畑村 はい。人間は想定だけでは生きられない。現実を見て判断することが大切だ。
  《ウラン燃料が発する崩壊熱を下げるため、原子炉圧力容器や燃料貯蔵プールへの注水作業は続けなければならない。だが、核分裂生成物がこの水に入り込んで放射能汚染が拡大する悪循環が起きている》
 --この悪循環を断ち切るには
 畑村 すでに悪循環を断ち切るための時間を失してしまった。東京電力にも政府にも時間のあるうちに考える人がいなかった。放射能汚染が広がる前に配管をつなげて新たな冷却システムを取り付ければよかったのだが、もう別のことを検討しなければならない。
 --どうして早くそれができなかったのですか
 畑村 東電が悪いというわけではないが、日本的企業の体質がそこにあると思う。国の基準を守っているから問題ないという東電の考え方は、緊急事態では機能しない。他者に下駄(げた)を預けるような企業文化がそうした考えを生む。今回の原発事故は起こるべくして起きた組織事故、いやもっと大きいから組織災害といった方がいいだろう。
 --今後、日本は原発とどう付き合っていけばいいのですか
 畑村 人類は原発を知り尽くしていない。だからこれからも事故は起きるだろうが、事故を克服して原発を使っていくべきだ。(論説委員 木村良一)