2012年9月22日土曜日

国の代表者たる人物の資質とは?:日本、アメリカ、韓国

 韓国では安チョルス氏が、大統領選挙に出馬することになったという、まごころの政治をスローガンに出馬する安氏は、ソウル大学の医学部の教授であるのみならず、アメリカのペンシルベニア大学でMBAもとり、IT企業を立ち上げ成功した企業家でもある。

企業家と言っても、日本の大企業の経営者にような既得権益にしがみつき、国民がどうなろうが、企業の金儲けのために強引にカネと権力を行使する人物ではない。安氏は自らアンチ・ウィルスソフトを開発し、それを無料で配布するような人物である。日本では若者に人気があると伝えられているようだが、韓国では年齢に関係なく、大変な支持を得ていると聞く。

 一方、アメリカのオバマ氏も、日本にとってはTPPといい、基地問題といい、理不尽な要求を強引に突きつけてくる、たいして有り難くない大統領だ(むろん保守的な共和党の代表よりはましかもしれないが)。しかし、自国民のためには、困難な選挙公約を在任中に次々と果たし、僅かな期間の間、アメリカ国民のためにかなり貢献したのではないかと評価できる。

むろんアメリカの世論のなかには、大統領が経済を好転できなかった責任は重大だという異論もあることは十分に承知している。しかし、そもそもイラク戦争とリーマンショックで、あれだけひどく疲弊したアメリカの経済を、アメリカ大統領一人の力で、わずか4年の短い時間のうちに立て直すなどということは、常識的に考えて無理な話である。

「経済がよくならないから、大統領として失格」というのは極めて単純かつ短絡的な考え方であり、大統領就任時にリンカーンを強く意識して国民による国民のための政治を目指したオバマ氏が、仮に今度の選挙で共和党に破れるとすれば、それは彼自身の力量不足というよりかは、むしろブッシュ共和党政権の尻拭いをするという貧乏くじを引いてしまった、不幸な巡りあわせの結果としか言いようがない。

 日本ではあの野田氏が民主党の総裁として大勝した。これだけ国民から不信任の声が日々強まっているなか、過半数以上の党員が野田氏を選出したという事実は、民主党が何を見て動いている政党であるかを端的に表している。

経団連や経済同友会の会長や大型メディアの社主やアメリカがNoといえば、昨日決めたはずの脱原発を、一晩のうちに反故にするなどといったことを、平気の平左でやってのけるのが、現民主党の閣僚たちである。

むろん問題は民主党だけにあるわけではない。民主党といい、自民党といい、維新の会といい、党利党略の政治しか志向しない連中ばかりで、全く嘆かわしい限りである。

自民党総裁の座を狙う候補者はといえば、揃いもそろって右傾化した2世議員ばかりで、親の七光りで知名度を上げたに過ぎない世襲議員を好んで取り上げ、ちやほやしてきたのが日本のマスメディアである。

特に、自民党は、これまで営々と電力・原発関連企業から多額の政治資金を得てきたことや、官僚主導の悪政(弱腰外交、原発推進政策、年金、農業、経済政策)を主導してきたがために、にっちもさっちもいかなくなってしまった失策の責任を、国民の前で詫びて、出直すという発想すら持てないような御仁ばかりである。

 他方、維新の会はといえば、奇をてらうような発言ばかりを繰り返し、メディアに持ち上げられて追い風に乗っているとはいえ、結局大阪、名古屋、横浜などの大都市ばかりが潤い、それ以外の地方や、働けない高齢者を容赦なく斬り捨てる弱肉強食の社会づくりに拍車をかけるだけである。
票集めに貢献できるような人間を巧に寄せ集めてはいるものの、国民目線の政治からも、真心の政治からも程遠い。

口先三寸のご都合主義で、脱原発と主張しながら、舌の根も乾かぬうちに前言をころころと覆すところなどは(結局それが大きなきっかけとなって大飯原発の再稼働が決定してしまったわけであるが)、民主党とそっくりである。

悪知恵と権力欲と詭弁を弄すること以外は空っぽで、しっかりした哲学もビジョンも、卓抜した知性も品性もないような彼らは、誰一人をとっても、明らかに国の代表としての資質を欠く。

そんな彼らが、国際社会で敬意を持って評価されるはずもない。

彼等がどう評価されようが、それは彼ら自身の問題であるが、彼等が国の顔となり、それが国の評価に直結することを、我々はもっとしっかり認識しておかなければならない。

以下講談社「現代ビジネス」に掲載された長谷川幸洋氏の記事を転載する。


http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33597

「現代ビジネス」
長谷川幸洋「ニュースの深層」
「近いうちに解散」「シロアリ退治」「原発ゼロ」ーーー約束を平気で次々に破る野田佳彦という政治家の本質
                    2012年9月21日(金)


野田佳彦首相が「秋の解散」先送り発言を繰り返している。
 9月19日のテレビ朝日系列「報道ステーション」では「『近いうち』と言ったのは事実。ただし、それは内閣不信任案と問責決議という野党にとっての異議申し立てを放棄するという前提での話だった」と述べた。そのうえで自民党総裁選の後、新しい総裁と「3党合意をどうやって実現していくのか腹合わせして、今後のスケジュールを考えたい」と語った。
 私は先週のコラムで「10月解散の話は消えた」「野田は党代表に再選されれば、新しい自民党総裁と党首会談を開いて、3党合意やその先にある連立の可能性について突っ込んだ協議をする運びになるだろう。解散に踏み切るかどうかは会談の結果次第だ」と書いたが、まさにその通りの展開になった。

谷垣との約束を一方的に破った野田

 注目されるのは、野田が谷垣禎一自民党総裁との会談の中身に触れた点だ。近いうち解散の約束は「内閣不信任案と問責決議の放棄が前提だった」と暴露している。先週のコラムで書いたように、谷垣は「会談について外に出すのは『近いうち』という部分だけにする、と合意した」と語っている。そうだとすると野田は今回、この約束も破った形になる。
 ここが、むしろ重要だ。政治家同士の密約で中身と公表の仕方は表裏一体、ワンセットである。野田は公表の仕方について谷垣との約束を一方的に破ったのだから、合意の中身についても、もはや「守る理由はない」と考えているとみて間違いない。
 野田が暴露したように、もしも谷垣が本当に「近いうち解散」と引き換えに内閣不信任案と問責決議を封印する約束をしていたなら重大だ。言うまでもなく、野党にとって最大の武器は内閣不信任案、次いで問責決議である。この2つを封印するなら、いわば完全武装解除したのと同じになる。戦う前から政局のイニシアティブを敵に渡したも同然だ。「あなたを信じますから、私は武器を捨てます」という話なのだ。
野田の話が本当なのかどうか。もし違うなら、谷垣は堂々と反論すべきだ。だが20日夜になっても、谷垣サイドから何も反論が出ていないところをみると、どうやら谷垣は武装解除を本当に約束していたのかもしれない。そうだとすると、野田に封印を約束しながら結局、野党7会派が提出した問責決議に同調したのだから、谷垣もブレにブレた格好である。これでは野田のほうが一枚上手と言わざるをえない。
 いずれにせよ、自民党新総裁との話し合い次第の面はあるが、これで10月解散話はいったんリセットとみるべきだ。

野田という政治家の本質とは

 野田は「2030年代に原発稼働ゼロ」というエネルギー戦略の閣議決定も見送った。今回の「近いうち解散」先送りと原発ゼロ閣議決定の見送り、さらに5月25日コラムで紹介した消費税をめぐるシロアリ発言を合わせて考えると、あらためて野田という政治家の本質が見えてくる。
 野田はどうして、こう次から次へといったん口にした約束を平気で破れるのか。その謎が解けてきたような気がするのだ。それは、こういうことではないか。
 野田にとって発言や政治行動はあくまで、その場の状況に合わせたものなのだ。状況が変われば、全体の判断も変わり、したがって発言も行動も変わる。それで何の問題もない。不都合とも思わない。野田はそういう政治家である。
 野田にとって重要なのは、いつでも目の前の「状況」である。選挙の時は自分が当選する。それがもっとも重要な「自分が置かれた状況」だったので、当選するには「消費税を上げる前にシロアリ退治をします」と約束する。それはそれで、もっとも合理的なセリフになる。
 次に谷垣との会談では、野田の最優先事項は消費税引き上げ法案の成立と、できれば内閣不信任案や問責決議の提出阻止だった。増税法案成立だけでも十分だったはずだが、欲張って不信任案と問責決議の封印を持ち出してみたら、なんと谷垣はそちらも同意してしまった。それなら、まったく文句はないので「近いうち解散」を約束した。野田の言い分が本当だとすれば、そういう話になる。
 だが後になって、谷垣自民党が問責決議に賛成するという「新しい状況」が生まれる。すると野田の判断も変わって「いまや前提が崩れた。新総裁と話し合ってみなければ分からない」という話になる。

官邸を取り巻く数万人の群衆は予想外

 原発ゼロも同じである。当初は霞が関(とせいぜい経済界)の風景しか目に入っていないから、経済産業省の言い分にしたがって関西電力大飯原発の再稼働を決めた。将来のエネルギー戦略についても、経産省まかせで「2030年原発ゼロ案」「15%案」「20~25%案」という3つの選択肢を用意し、真ん中の15%案への着地を狙っていた。ほぼ同時進行で、これまた霞が関まかせで原子力規制委員会の露骨な原子力ムラ人事を内定した。
 ところが毎週末の首相官邸前抗議行動が象徴するように、脱原発世論と原子力ムラ人事への批判が高まると、野田にとって状況が変わる。反対派の抗議を「大きな音」などと口が滑ったが、官邸を取り巻く数万人の群衆は予想外の「新しい状況」だったのだ。
だから、あわてて軌道修正を図る。さすがに大飯原発は止められないでいるが、15%案はあきらめてゼロ案に傾く。原子力ムラ人事は国会同意をあきらめ、首相権限での任命という非常手段に訴えざるをえなくなった。それはたしかに乱暴だが、むしろ野田がそれほど追い詰められていた、と理解すべきである。批判が効いたのだ。
 ゼロ案を公表してみると、当然なのだが、経済界や原発立地県、青森県などから猛烈な反発を浴びた。それがまた野田にとって「新たな状況」になる。すると、今度は閣議決定の見送りに舵を切り換える。
 もう1つ、例を挙げよう。野田は先の番組で12月訪ロ予定について「11月までは次官級、外相級の会談があるので、総理が訪ロするなら12月になる。だから12月訪ロ希望を言った。それと解散時期の話は関係ない」と説明した。これも同じだ。
 プーチン大統領を目の前にして、野田の視野には「日ロ交渉をどう進めるか、という状況」しか入っていない。解散は関係ないのだ。だから12月訪ロという答えがスッと出てくる。ところが、もちろん現実には訪ロだけでなく解散をどうするかという問題がある。
 特例公債法案の成立が見通せないなど政権が行き詰まって解散せざるを得なくなると、今度は解散不可避という「新しい状況」が目に入ってくる。そこでは12月訪ロの約束など、どこかに消え失せてしまうに違いない。そのときは日本人だけでなく、プーチンまでがあっけにとられることだろう。

野田は信念の政治家ではない

 以上のように徹頭徹尾、野田の行動原理を支えているのは、常に目の前の状況である。状況に応じて対応するのが「悪いことだ」とか「信念に反する」といった考えは初めからない。もともと信念など持ち合わせていない。むしろ「状況に応じて柔軟に対応するのが政治家の手腕、力量」と考えているのではないか。
 これに対して、普通の人々は「政治家は信念にしたがって行動し、理想を実現するために政治活動をしている」と思っている。野田のように自信満々で「シロアリ退治」を訴えられると「その通りだ。彼は信念の政治家だ」と勘違いしてしまう。人々は「政治家は信念で活動してほしい」と願っているから、そういう風に演じられると、つい「信念の政治家」と思い込みたくなってしまうのである。
 自分が願うように現実を理解する。これは日本社会のいたるところで見受けられる。日本人の悪い癖だと思う。最近の一例を挙げれば、環太平洋連携協定(TPP)への態度もそうだ。TPP反対論者は野田が昨年、TPP交渉について「参加に向けて協議する」と表明したら「あいまいだ」とか「参加はとんでもない」と批判した。
 日本が「参加に向けて協議する」と表明したところで、相手が参加を認めるとは限らない。当たり前だが、参加できるかどうかは相手次第の面が半分、あるのだ。現に共和党のロムニー大統領候補は交渉が減速する懸念があるので、現段階での日本の参加に反対している。とにかく交渉反対という立場の人はともかく、新聞や識者が野田の言い方をあいまいと批判するのは、自分の都合でしか物事を判断しない視野狭窄である。
 脱線した。
 野田は信念の政治家ではない。そうではなく、その場の状況に対応する政治家だ(こういう人を「政治家」と呼ぶのはためらうが)。その場しのぎの人である。多くの人が「政治家は信念の人」であってほしいと願うのは勝手だが、間違ってはいけない。政治家も人それぞれだ。実績と行動で正しく判断すべきである。
 野田には初めから信念だとか、実現すべき理想のようなものはない。あったとしても、それは「床の間の掛け軸」のようなものだ。あれば格好よく収まりもいいが、別になくても困らない。邪魔になれば、いつでも外す。その程度なのだ。
 そう考えると、野田の政治方針はこれからもコロコロ変わる、とみて間違いないだろう。いまや野田の脱原発路線はほとんど風前の灯火だ。だが、たとえば次の選挙で落選すれば、またまた脱原発を言い始めるかもしれない。あるいは「消費税引き上げは間違っていた」とさえ言うかもしれない。
 こういう政治家が内閣総理大臣にまで昇り詰めた事実に脱力する。しかし、それが日本の現実でもある。










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