ところで、小さな列島に52基も所狭しとある原発が全部止まれば、どこかで支障をきたすはずであるが、全くその気配もない。
結局どうでもいいものを、「絶対不可欠だ」と言い張って、自分たちの利権のためだけに大枚を投じて自分たちの技術力ではまともに制御できないようなものを強引に稼働させてきたということなのであろう。しかしそれに加担してきた人々にとって、それは認め難い事実であるから、あえて自分たちにとって都合の悪いことには触れない、論じないという姿勢をとり続けているということらしい。
テレビ各社のほとんどは、5月5日の全原発の停止という大きなニュースを全く報道せず、あい変わらず、朝からくだらない番組ばかりを流し続けている。
どこかの山で高齢の登山客が遭難しただの、関越自動車道で事故を起こした運転手の家宅捜索をするだの、特段、全国ネットで何度も繰り返し、報道しなければならない価値もないニュースばかりを取り上げている。
「電力不足、電力不足」と喧伝する前に、電気紙芝居の放映時間を持ち回りで短縮し、自粛してくれれば、日本の電力不足はかなり解消するはずである。
そして、それこそが金と権力に擦り寄り、地に落ちた日本の大型メディア各社が今できる唯一の社会貢献であると言っても、決して過言ではない。
以下、京大助教、小出裕章氏の稼働ゼロに関する弁を転載する。
本来ならば、小出氏のような見識も常識も備えた人物を、特集やドキュメンタリーで取り上げたり、、エネルギー問題についての見解を問うべきなのではないのか。
むろん、すべてのジャーナリストが、あるいはメディアが腐り果てているわけではない。
MBSラジオの種まきジャーナルは唯一、フクイチの原発震災以来、小出氏へのインタビューを引き続き継続的に実施してきたし、古舘伊知郎や、玉川徹など頑張っている少数の報道マンもいるが、哀しいかな、それらは、日本のメディアの中では少数派である事実には未だ変わりない。
国民の多数が原子力事業に対して大きな不信感と拒絶感を抱いているというのに、多数派に属する多くのメディア関係者は、大企業の利益のために国民を大きな危険にさらすことに、何ら罪の意識すら抱いていないようである。戦中大本営発表に加担した日本のメディアの悪しき体質は、60数年たっても、一向に改善の気配すら認められない。
しかし、もはや国内の放送局の報道に頼らなければ情報が得られないような時代ではないことを受け入れ、新聞社やテレビ局は、新しい時代に相応しいメディア報道のあり方を探らなければ、新聞の発行部数も、テレビの視聴率も転落の一途を辿るばかりとなることは火を見るよりも明らかである。
http://hiroakikoide.wordpress.com/2012/05/03/tanemaki-2012may2/
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