リスクを国民に押し付け続ける政府を信用できない! 大飯原発再稼働と東電国有化の裏に隠蔽された「不都合な真実」
野田佳彦首相は8日夕方の記者会見で、関西電力大飯原子力発電所の3、4号機再稼働の方針を打ち出した。これを足掛かりとして、なし崩し的に、北海道電力泊原発や四国電力伊方原発も運転を再開する構えだ。
しかし、その一方で、いざという時に被災者に十分な賠償ができないという現行の原子力損害賠償制度の欠陥、つまり、「不都合な真実」はひた隠しにしたままである。例えるなら、自賠責にさえ入っていない無保険車両の運転を許すような、危険な話である。
そして、こうした「不都合な真実」を隠したまま、その場しのぎを試みる施策は、政府が7月に予定している「東電国有化」にも共通している。
被害者は泣き寝入りするしかない
「国民生活を守ることが私の唯一絶対の判断の基軸だ」
「原発を止めたままでは日本社会は立ち行かない」
8日の記者会見で、野田首相は、こうした空疎な言葉を繰り返した。
運転再開の条件としてきた安全の確立については、ストレステストの2次評価を有耶無耶にしたうえで、現行の安全基準を「原子力規制庁ができるまでの暫定基準」(細野豪志原発事故担当大臣)に格下げする一方で、お飾りとしか思えない経済産業副大臣らの駐在を掲げて、煙に巻いてしまった。
その一方で、津波から原発を守る堤防のかさ上げ工事は先送りしたまま。折から指摘されていた敷地内に活断層が存在しているのではないか、という疑問にも手付かずのままとなっている。
何より悪質なのが、原子力損害賠償支援機構の設置にもかかわらず、福島第一原発の賠償がなかなか進まない元凶である、原子力損害賠償責任保険制度の欠陥を何ら修正せずに、再稼働に踏み切ったことだ。
どういうことかというと、現行の原子力損害賠償責任保険制度では、「原子炉1基当りの賠償措置額(可能額)」が1,200億円しかなく、福島第一のような深刻な事故が起きれば、被害者は泣き寝入りするしかない、というのが実情なのだ。
しかも、大飯原発は、半径100㎞圏内に、関西の主要都市がほぼすっぽりと収まる場所に位置しており、いざという時の被害は、福島第一の比ではないと見られている。
東電経営のツケを背負い込むのは一般国民
ところが、こうした不都合な真実を伏せたまま、問題を先送りにし、リスクを国民に押し付けようとする政府の姿勢は、今回の大飯原発の再稼働にかぎった話ではない。
むしろ、確実に巨大な国民負担を招くという点で大飯原発以上に深刻なのが、政府が7月に実施を予定している東電国有化の問題である。
政府は、月内に東京電力の株主総会を開催して、発行可能な株式の総数枠を拡大したうえで、原子力損害賠償支援機構を通じて1兆円の資本注入を行い、東電株の過半数を取得、事実上の国有化を実現する方針だ。
新聞やテレビは、当初、東電が抵抗していたためか、この国有化を東電に対するペナルティか何かのように礼賛してきたキライがある。
だが、そもそも、今回のような国有化は、自由主義経済の原則を無視して、その根幹を揺るがす間違った政策だ。配当などの分け前に預かるために、東電の経営リスクを負担していたはずの株主の責任を不問に付すばかりか、東電から金利収入を得ようとしていた金融機関の貸し手責任、東電との商取引で儲けようとしていた取引先企業のリスクまで解消してしまう行為に他ならなないからだ。
しかも、代わりに、そうした責任とリスクをすべて背負い込むのは、公的資金の出し手である我々一般国民だ。何の責任もないのに、原発事故を引き起こした東電の経営のツケを背負わされるのである。
長期間にわたる重い国民負担の始まり
この国有化は、関係省庁と東電、金融機関の既得権保護と政策的な失敗のなれの果てに過ぎない。
というのは、破たんを免れようとした東電、融資の焦げ付きを回避しようとした金融機関、電力行政失敗の責任追及から逃れようとした経済産業省の圧力に屈して、金融庁が昨年3月半ば、暗黙の政府保証と引き換えに、東電に対して緊急融資を行うよう"指示"してしまったからだ。財政資金の投入を逃れようとした財務省の問題や、実質的に債務超過に陥っている東電の決算のカバーアップに手を貸した監査法人の責任も決して小さくない。
そして、国民として、絶対に容認してはならないのは、今回の国有化の資本注入のために投入される1兆円の公的資金が、資金繰り的に見て、せいぜい半年か1年の問題先送りにしかならない点である。
政府の第3者委員会と東電が事故の後始末費用として見込んでいるのは、賠償が4兆5,000億円程度、除染がゼロ、廃炉が1兆円強でしかないからだ。それぞれゼロが1つか2つ足りず、その総額は100兆円単位の金額に達しても何ら不思議が無いのに、政府はこれまで、この不都合な真実をひた隠しにしてきた。
足りないおカネは、金融機関からの追加支援か、再度の公的資金の投入によってしか賄えないし、半年か1年先には、再支援問題が火を噴いてもおかしくない状況なのだ。
そうした観点で見れば、東電が4月に実施した企業向けの電気料金値上げや7月に計画している一般家庭向けの電気料金の値上げは、長期間にわたる重い国民負担の始まりに過ぎない。
政府はどこかで東電支援のための増税を模索する可能性があるが、電気料金だけで必要な資金を調達しようとすれば、東電をはじめとした各電力会社の電気料金は福島原発事故以前の2~3倍の達してもなんら不思議はない。
さらに言えば、こうした不都合な真実の隠蔽と問題先送りは、福島原発事故の遥か以前の1950年代、日本の原子力開発の草創期から繰り返されてきた問題なのだ。
旧科学技術庁は1959年、最悪で720人以上の人が死亡するとか、当時の日本の一般会計予算の約2.5倍の損害が発生する恐れがあるという試算を得ながら、その全容を40年の長きわたって隠蔽してきた。
これらは、いずれも、放置すれば、将来の世代にとんでもないツケを回すことになりかねない問題だ。
こうした現状については、先週、筑摩書房から刊行された『東電国有化の罠』に詳しく書いた。この機会に、一人でも多くの国民に、歴史的な政府の不都合な真実隠しの実態を知ってもらい、電力・原子力政策を考える一助にしていただきたい。
http://jp.wsj.com/japanrealtime/blog/archives/11794/?mod=Center_jrt
暫定的でない原発再稼働、性急過ぎる決断に懸念
野田佳彦首相が「国民の生活を守るために大飯原発3・4号機を再起動すべき」と表明した。国内で稼働している原発が42年ぶりにゼロとなっていたが、大きく世論を二分していたこの問題は、再稼働へ舵を切ることで大きな転換点を迎えた。
最終的には政府の判断だった。とは言え、原発立地であるおおい町議会が再稼働を望む意向をまとめたことや、電力の供給を受ける関西各地域の首長たちが最終的に賛成に転じたことが、再稼働を後押ししたことは間違いない。
反対の急先鋒だった大阪市の橋下市長が“同意”に転じた際には驚く人も多かったようだ。だが、市長が掲げる「大阪都構想」には企業を誘致して大阪圏の経済を発展させることが重要な要素として含まれている。代替エネルギーによる大規模な発電が可能になるまでは原発に頼らざるを得ない。そのため、最終的に再稼働を容認したのは、ある意味で既定路線だったと筆者は考えている。
それでも、今回の首相会見は筆者も驚く点が多かった。なぜなら、今回の再稼働はあくまでも暫定的という色合いを打ち出すとばかり思っていたからであり、性急な進め方に危惧を抱いたからである。首相は中長期のエネルギー政策は「8月をめどに決めていきたい」と述べたが、その言葉とは裏腹に、エネルギー政策が原発に依存する状況を将来にわたって続ける意向が強くにじむ会見内容となっていた。
それは、「福島を襲ったような地震・津波が起きても、事故を防止できる対策と体制は整っている」との発言に顕著にあらわれた。福島第1原発の事故が収束せず全容が明らかになっていない上に、大飯原発にまだ免震重要棟やフィルター付きベントがなく、十分な防潮堤も整っていないにもかかわらず、こうした言葉が出たのである。首相は「大飯原発3・4号機以外の再起動については、大飯同様に引き続きていねいに個別に安全性を判断していく」としたが、大飯への対応を見ればなし崩し的に他の原発も再稼働させると見るのが妥当だろう。
また、夏場のピーク時の電力需要で停電の恐れがあることが最重要課題であったはずなのに、「夏場限定の再稼働では国民生活を守れない」とまで踏み込んで発言したことにも違和感を抱いた。国民の間だけでなく、与党の中ですら反対論が強い再稼働なのだ。なぜそこまで先を急ぐのだろう。
「豊かで人間らしい暮らしを送るために、安価で安定した電気の存在は欠かせません。」この言葉が首相の口から出た時には、驚きを通り越して何かの冗談だろうかと思ったほどだ。原発事故の前なら大半の国民が納得して聞けた言葉だろう。だが、事故が収束すらしていない今、なぜこんな言葉が出なければならないか理解しづらい。
ところで、大飯原発再稼働が目前となった今、次に気にかかるのが、7月に運転開始から40年を迎える美浜原発2号機の扱いである。枝野経済産業相は「原発の運転年数を原則40年とする原子炉等規制法改正案が成立すれば、適用を受ける」と述べた。だが、原子力安全・保安院は美浜2号機の稼働を10年延長しても技術的に問題がないとする案を示している。技術的には問題はなくても、老朽化した原発が動く心理的な不安は残る。それでも原発を動かすとすれば、政府の原発行政はこれまでと変わらないということだろう。
大飯原発再稼働にせよ、今後の原発行政の行方にせよ、これだけ重大な決断である。風前の灯となった低支持率しか持たない政権が決定するには限界がある。世論調査やデモなどよりもっと明白な形で民意を問う、つまり選挙で争点とする、という洗礼を受けることが、日本の将来の世代に対するわれわれの責任の果たし方ではないだろうか。
(筆者は近畿大学総合社会学部准教授。2011年11月まで「金井啓子のメディア・ウオッチ」を連載)