http://jp.wsj.com/Japan/node_257234
設計上の欠陥が事故を悪化させた―福島原発
東京電力の幹部技術者らは、福島県の5基の原子炉に危険を生じ得る設計上の欠陥があったことを、長年にわたり把握していた。しかし、東電はその欠陥を十分に改善せず、震災が起こった際に事故が起こる結果となったことが、ウォール・ストリート・ジャーナルの調べで明らかになった。
この記事は、東京電力の現役、および引退した幹部技術者十数人に対する取材を元にまとめた。その中には、1970年代に行われた、設計に関する決定に深くかかわった技術者もいる。そのうちの数人は、ここ数十年の間に、東電は古い原子炉を改良する機会があったと言う。それができなかったのは、大丈夫だと思う気持ちと、コスト削減の圧力と、規制の緩さが原因だと、彼らは話す。
「(新しい)6号機で使い始めたやり方を、福島第1の原子炉に当然すべて採用すべきだった」と、88歳の豊田正敏氏は言う。東電の元副社長で、原子炉建設の監督に力を貸した人物だ。彼は設計の欠陥に気づかず、のちにそれを修正しなかったとして、自身を責める。
東電の広報担当者は、現在日本政府が事故の原因について調査を進めているとして、この件に対するコメントを控えた。
古い原子炉を使っているのは日本だけではない。米国も30年以上稼働している原子炉が数十基あり、そのうち23基は福島の旧型の原子炉と同じ、ゼネラル・エレクトリック(GE)製のものだ。今後数年のうちに、運転許可の更新が必要なものが数台ある。ドイツやスイスでは古い原子炉をそのまま引退させ、福島の事故後、原子力発電も止めるという決定をした。
福島県の発電所は新型のものも含めて、すべてがGEの設計を基盤としている。GEは日本にあるGEの原子炉の点検・修理などを行うという実入りの良い契約を結んでおり、パートナーである日立とともに、古い原発の寿命を延ばすべく、世界で活動を行っている。
GEは福島の原子炉の欠陥については、東電が設計変更を担当していたのだから、GEの責任ではないと言う。GEの広報担当、キャサリン・ステンゲル氏は、福島第1原発における非常用ディーゼル発電機の設置は、東電と行政当局が確認して、許可されたと言う。
福島で最も古い原発の建設は、1960年代に行われた。震災以後の放射線問題すべてを引き起こしている福島第1原発は、東電にとって最初の原発だった。同原発は太平洋に面しており、ある意味、実験室のような位置づけだった。第2次世界大戦の終結からわずか20年ほどだった当時、日本には自国で原子力発電所を設計する能力はなかった。そこで、GEから原子力技術を卸してもらったのだと、日本の技術者たちは言う。
初期の原子炉はGEの「マーク1」を用いていた。建設を担当したのは、アメリカのエバスコ(Ebasco)という企業で、同社は現在は存在しない。原子炉を小さく、安価にするために、エバスコは原子炉建屋を小さくしたと、豊田氏は言う。
原子力発電所は、不安定な核燃料を継続的に冷却し続けなければならない。このための冷却装置は電気で動き、電気は通常その国の電力網から引いてくる。電力網が機能しなくなった場合、原発のディーゼル発電機などの非常用電源が作動し、冷却装置を動かし続ける。これらの機器が作動しなければ、原発は炉心溶融の危険にさらされる。
東電の最初の原子炉建屋は小さかったため、非常用発電機は別の場所に置かなければならなかった。技術者らは、発電機を隣のタービン建屋に置いた。原子炉建屋は要塞のように厚いコンクリートの壁に囲まれており、頑丈な二重扉がついていた。それに比べるとタービン建屋、特にその扉はずっと造りが貧弱だった。
「原子炉の安全が主目的。だから、原子炉建屋に置くのが当たり前だ。耐震設計でクラスAの場所に置かなきゃいけない」と、豊田氏は言う。「津波が起こっても、ディーゼル発電機が原子炉建屋に入っていれば、今回のような事故は起こらない。ディーゼル発電機がタービン建屋にあったということを、私を含めて気がつかなかったのは残念だと思っている」
東電で原発技術担当の幹部だった岸清氏は、最初に設計が行われた当時は、福島の太平洋岸で大きな津波は「起こり得ない」というのが常識だったという。のちに東電は、この原発の(すべてではなく)一部を手直しし、5.7メートルの津波に対応できるようにした。だが、3月の津波はその倍以上だった。
1970年代以降、何度も福島第1原発を訪れたというある東電の技術者は、原子炉建屋は非常に窮屈で、通常の作業をするあいだ、バルブひとつを設置するのにも苦労したという。「マーク1はひどい設計。1人しか上れないようなはしごを上らなければいけない。時間もかかって、非常に効率が悪い」と、その技術者は言う。
東電の技術者らによると、東電はマーク1にまったく満足しておらず、福島第1原発の6号機を計画している途中で、別の設計を採用することにした。もっと細身のGEの原子炉、「マーク2」を導入し、建屋自体も大きくしたことで、6号機の建屋には予備の発電機を内部に置けるだけの十分なスペースができた。
1970年代後半、11キロほど離れたところに福島第2原発の建設を始める際には、東電はさらに設計を改善した。4基の原子炉がつくられ、そのすべてでマーク2が採用された。また、このマーク2には、津波や地震に対応しやすい仕組みを施しており、「ずっと日本向け」の仕様になっているのだと東電の技術者らは話した。
GEによると、同社は1980年代に米国と日本で、技術の進歩に合わせてマーク1の設計を改良したという。GEはマーク1は安全だという。
1987年、東電は福島県で最後となる、10番目の原子炉を開設した。福島第1原発の1号機から5号機までは旧型で、残りの5基は新型だった。
その後、東電は原発を繰り返し改善し続けた。日本政府も、何度も耐震基準を厳しくした。旧型の原子炉用の非常用ディーゼル発電機を納めたタービン建屋は、耐震安全性評価ではクラスBで、新型の原子炉用の非常用電源が入っている原子炉建屋のクラスSよりも、低い評価だった。
「非常用ディーゼル電源の不統一な置き方、設置のやり方についてはみんな気が付いていた」と、東電の原子力部門を指導してきた幹部技術者は言う。
その技術者によると、1987年に政府による定期検査の準備をしていた時、この予備発電機の置き場所は「違いが際立っていた」という。彼は同僚に「この問題を解決すべきか」と尋ねたと話す。
別の専門家は、タービン建屋の地下だから、耐震上大丈夫だと言ったという。結局、その技術者は、「特にこだわってやるマスト・フィックス(必ず直すべきこと)ではない」と考えたと話す。
元副社長の豊田氏は言う。「その後たびたび、耐震設計などの見直しをやっている。それでもやっぱりお金がかかるということで、言い出せなかったのかもしれない」
東電はこの頃から、電気料金の高さを批判されており、そのような大きな変更は困難だったと、同社の元幹部は言う。
1998年、新たな規制に対応するため、東電は福島第1原発の各原子炉に、少なくともそれぞれ2台の予備ディーゼル発電機を設置することを決めた。新しく設置することが決まった2号機と4号機の予備発電機は原子炉の隣、山側の高い位置に新たに建てられた専用の建物に納められた。これらの新しく追加された非常用電源を通して、福島第1の6基の原子炉はすべて、脆弱なタービン建屋以外の場所に設置された発電機を備えることになった。
これは安全性の面で大きな進歩だった。3月11日の津波が起こったときには、すべての原子炉で予備の電力を確実に得られるようになるまで、あと一歩のところまで来ていた、と言うことができる。具体的にあと一歩とは、追加された予備発電機から原子炉の冷却装置に電気を送る配電盤の問題だった。日本の技術者たちは、この配電盤を「メタクラ」と呼んでいた。配電盤のカバー「メタル・クラッド(金属製の覆いの意)」を省略した言い方だ。
1990年代後半に3機の非常用電源が追加された後も、第1号機から第5号機の「メタクラ」は依然として、耐震安全性評価クラスBの脆弱なタービン建屋にあった。それは、電源追加の機会にも変更されなかった(6号機ではそもそもの設計がより進歩していたため、すでに「メタクラ」は原子炉建屋に入っていて、追加の電源もこの配電盤を通して原子炉の冷却装置につながれた)。
東電の元副社長で、1990年代後半に予備発電機など、原発設備を担当していた友野勝也氏は言う。「やりやすかったからじゃないか。それ以外には想像できない。メタクラが(タービン建屋のなかに)あるのだから、わざわざ新しいメタクラをつくらなくてもいいと。設計グループの中に入って、喧々諤々と議論をした事実はない」
2001年には、福島第1原発1号機の、30年間の運転許可が切れることになっていた。東電は10年間の更新を求め、受理された。2011年初め、東電は再度の更新許可を得た。事故のわずか5週間前だった。政府審議を要約した議事録によると、規制当局は、旧型の原子炉の基本的な設計に欠陥があるか否かを、検討し直すことはなかった。
原子力安全・保安院、原子力発電検査課の青山勝信氏は、設計については原発建設の時点で検討されたという前提で、更新が行われたと話す。したがって、そもそもの設計や建設については議論されず、焦点となったのは、パイプの適合具合などだったと言う。
原子力安全・保安院は、経済産業省の一機関であり、原子力発電を促進する役目も担う。経済産業省は、原子力発電を日本の発電量の半分以上にすることを目標としている。昨年は30%ほどだった。この目標はごく最近、2010年6月に菅直人首相により再度確認された。
3月11日午後3時30分頃、マグニチュード9.0の地震が起きてから45分後に、大津波が福島第1原発を直撃した。送電網は使えなくなり、1970年代からタービン建屋に置かれていた予備発電機は水につかった。
1990年代後半に追加され、山側の建物に置かれていた3台の発電機は動き続けていた。しかし、そのうちの2台は、1号機から4号機では役に立たなかった。なぜなら、非常用発電機から冷却装置に電気を送る「メタクラ」が、タービン建屋の中で水につかっていたからだ。「スイッチヤード(配電盤)に水がついたら全部だめになる」。東電の友野元副社長は言う。
その後、1号機から3号機までで、核燃料が過熱し始めた。核燃料が溶け出し、放射線を放出するリスクがあった。数時間のうちに、1号機の燃料はほぼ完全に溶け、圧力容器の底に落ちたと東電は言う。
その数日後、1号機と3号機で爆発が起こり、原子炉建屋はひどく損傷した。3号機から漏れた水素が4号機の建屋の爆発を引き起こしたと考えられ、2号機でもおそらく爆発が起こった。複数回の爆発により、空気中に放射性物質が放出された。
一方で、5号機と6号機、および福島第2原発は、安全に冷温停止状態となった。6号機では、原子炉建屋内に置かれた2台の発電機が一時的に作動しなくなった。おそらく、排水管から水が内部に入ったためだろうと、東電の関係者は言う。だが、別の建物に置かれた非常用ディーゼル発電機が作動し続け、損傷していなかった「メタクラ」を経由して、電力を原子炉建屋に供給した。東電はこの電力を、隣の5号機にも使うことができた。
大きく損傷した原子炉は、冷温停止に至るまでまだ何カ月もかかる。
東電の元幹部で、原子力発電技術を担当していた岸氏は、自分が何十年をも費やしてきた原子力発電所が、煙となっていくのを見た。岸氏は、福島の旧型と新型の原子炉の違いは、「あまり数字に出ない。一見大した違いには見えない」という。
だが、振り返ってみると、と岸氏は言い、東電が高い基準を一貫して適用しなかったことが、「基本的な欠陥」だと言う。それが、福島の運命を決め、世界中の原子力発電の未来に影を落としている。
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